最初に、皆さん大歓迎です。このウェブサイトは、私がT12脊髄損傷と一緒に暮らし初めてからの物語を後世に残すために作ったものです。私は昭和46年にイギリスのマンチェスターの南にあるハイドで生まれたオリバー・ジョナサン・エッカーズリーです。北ウェールズのルードランと言う村に育ち、チェシャーのサンドバッチに引っ越し、そしてバーミンガムのアストン大学に入学してから日本に興味を持ちました。卒業以来、日本に25年間、横浜、佐世保、長崎、千葉そして今は東京に住み、日本中を飛び回っていました。私は人生の半分以上、日本に住んでいることになります。その間、英会話教師から人事部長、常務、最高経営責任者まで、様々な仕事をこなしました。最近では、高級車用の部品を輸入するサプライチェーンマネジメントに携わっていました。
妻の美恵子に銀座のスペインバルで出会えたことは、とても幸運でした。私はいつもミコと呼びますが、それは偶然にも彼女の最愛の祖父に与えられた幼年期のニックネームでした。私たちは一年後に結婚し、目黒川を見下ろす最上階のアパートを購入しました。その時、私達には多くの夢がありましたが、その夢が続くことはありませんでした。すべてがとてもうまく行く予定でしたが・・・。それでも、私は今全然不幸だと思っていません。人生ゲームのルールが変わっただけです。私は、もはや会社の目標を達成するための一会社員ではありません。今度の課題は再び歩けるようになることです。 2013年の11月の寒い朝、大動脈が壊れ破裂しました。数日前やったテニスのせいにして、4日間も、痛みを無視しました。正直、私は今生きているだけで、ラッキーです。
私達が出会った時、私達2人は40代前半でした。ミコは完璧なキャリアウーマンです。仕事がすべて。彼女は父親と同じ、有名な東京の大学を卒業し、英語がペラペラの典型的な日本のビジネスウーマンです。有名なキッチン用アクセサリーブランドの日本支店の物流部門輸入チームを担当し、責任を持ち、常に仕事のことを考えています。私の事がいつも気になって心配し、さらにワークロードが増えてしまい、本当に申し訳なく思っています。
今、この車椅子に座って、自分の人生を振り返ることは、非常に残酷だと思います。私が色々な間違いを犯してきたことに疑いの余地はありません。たとえそれが40代後半に脊髄損傷になった原因だとしても、後悔はありません。私は自分の今まで行った全ての選択に対して、自分に責任があると思っています。その選択は無防備に行われたのではなく、その時点で自分が良かれと思い、選択したことであり、自分が決めてきたことです。たとえ、今脊髄損傷を負っていても、今までの私があり、今の私がいます。
もし、人生がもう一度あるとしても、私はきっと同じような人生を送るでしょう。人生の半分以上を日本で過ごし、脊髄損傷になってしまう人生だとしても、全く悔いはありません。私は今まで、自分のスキルに関わらず、自分の可能性を信じ、誰かの役に立つために、全力を尽くしてきました。私は、常に人生を楽しみながら、自立し、社会に貢献し、人間として成長できるよう、チャレンジし続けています。
脊髄損傷になっても、自分の人生の目標は、やりがいのあるものにしたいです。常に、目標とするバーを高く設定して日々より良い1日にするための唯一の方法は、目標を設定することです。目標のバーを高くしすぎないように注意し、バーを微調整しながら、目標に進んでいくことが、より現実的です。魔法もありませんし、いきなり上達することもありません。より大きな目標に向かって、着実に前進する方がいいでしょう。でも、それが円滑に進むとは限らないことを頭の片隅にいれておきましょう。立ち往生していてイライしていると感じた時は、進歩がいつも一定の上向き方向になることはあり得ないことを、思い出します。進歩は、水平方向の動きが長く、垂直方向の上向きジャンプが散在する、一連の階段のようになります。時には、二歩前進する機会を作るために、一歩後退することがある、と心の準備をする必要があります。挫折した時の僕は、それが本当の自分を発見する機会、何かを学ぶ機会、迂回したからこそ、上達できることがある、と楽しむようにています。います。今でもつめ跡を残すような人生を送りたくてしょうがないです。たとえ私が目標としている高さに到達できなくても、近づこうとしています。今でも、「もう一度歩きたい」と声に出して言います。これは、前向きなことに他なりません。その言葉を声に出し、それがもたらすプレッシャーを感じながら、目標を超えていくつもりです。
